MtG訳記た。

モダンを中心とした(というよりはモダンの)海外記事翻訳保管庫

デッキ構築における評価とその改善手法についての一理論(Strengths Versus Weaknesses In Deckbuilding by ROSS MERRIAM)

StarCityGames.com - Strengths Versus Weaknesses In Deckbuilding

より。

ざっくり翻訳です。

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 僕がデッキ構築の相談を受ける時、大半の質問はこんなものだ。

僕のアグロデッキで衰滅をどう対処すればいいんですか?

この赤いデッキでコーの火歩きをどう処理すればいいんですか?

  この手の質問はつまり

僕のデッキの弱点を克服するにはどうすればいいのか。 

 というものを求めているのである。どのようなデッキにも弱点はあるが、それが目に入った瞬間人はその弱点にとらわれてしまうのだ。

 しかしながら、僕のデッキの作り方はそれとは異なる。つまるところ、「弱点を克服する」作り方なのではなく、「長所を伸ばし続ける」作り方をしているのだ。

 デッキを見て、自信を持つというのはすごく簡単なことだ。例えばアグロに対して優位な呪文の詰め合わせデッキだったり、ランプを殺すカウンターだらけのデッキならば、これらのデッキに対してこれ以上考える必要はなく、むしろ弱点となる部分のフォローに回ることになるだろう。

 そして、デッキ構築が完璧に行われるということは絶対になく、デッキを作れば必ずそのデッキの弱点に対する考察が行われることとなる。しかもこのたちのわるいところは不安を原因としてこの考察が行われてしまう、という点だ。誰も大会に負けに行っているわけではない。自身のデッキを信じ、いずれのマッチでも勝利をもぎ取ろうとしているのだ。

 だからこそ、環境にはミッドレンジ型のデッキが多く存在することとなる。このデッキはとても丸いゆえに、使用者の思いのままにアグロにも、コントロールにも変わることができるからだ。そういった丸いデッキを使うことは安心をうんでくれることだろう。

  とはいえ、ここには一つ、大きな落とし穴がある。弱いマッチアップが存在しない、としてもそれは別にこのデッキが強いということを意味していないのだ。

 例えば、ABCDの4つのアーキタイプで構成されたメタゲームを考えてみよう。

 以下に示す表はそれぞれのマッチアップにおけるそのデッキの勝率だ。

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 この時、まんべんなく対戦が行われたとすると、それぞれのデッキの勝率は以下(有効数字2桁)のようになる。

A = .50

B = .51

C = .50

D = .49

 つまり、平均的に対戦が行われる場合最高のデッキが何か、と、不利なマッチアップが2つ存在するものの、それ以上に対Dの勝率が高い、Bということになる。また不利とはいえ、対Aは実質5分のようなものであるため、評価の落ちも低い。

 これが僕がミッドレンジ型のデッキを好まない理由である。確かに丸いデッキであるためにそれなりの勝率を取ることはできるが、それよりは少々尖っているデッキのほうが最終的な勝率が高くなってしまうことがあるのだ。確かにAはどの対戦においても実質的に五分であり、ぱっと見で使いたくなるものである。とはいえそれを過剰評価しすぎてしまうことで、弱点を見すぎてしまうことで、最良の選択肢であるBを見失ってしまうことがあるのだ。

 今回の記事においては、そのためのデッキ選びというよりかは、どのような点が構築に影響をおよぼすか、という点に関して、未だ知られていないものを明文化していく、という目標がある。

 デッキ構築はおおよそ経済のゲームと等しい物がある。僕達に与えられた枠は(バベルでも組まないかぎり)75枚に限られており、その選択肢はゆうに数千枚となる。つまるところ、カードの取捨選択が必須となるわけで、どのカードの追加に関しても、裏目が存在することになる。また、デッキ構築の最終到達点は、「最も丸いデッキを作る」ことではなく、「最もゲームに勝てるデッキを作る」ことであることを忘れてはならない。

 ここで追記しておきたいのは、どう頑張っても会場にいるデッキにしか、大会中は当たることはない。デッキの使用率の合計は100%にしかなり得ない、というものだ。あるデッキへの対策をデッキに入れるということは、ある他のデッキへのガードを弱くすることにほかならない。人間の性質として、リスク回避をしすぎるあまり、あるデメリットについて、それを過剰評価してしまうことが非常に多いのだ。たとえば、さっきのBのデッキはDに対してはひどく有利だが、A、Cに対しては不利となる、という事象に対し、その後者だけに注目してしまうというものがあるだろう。

 故に、デッキ構築で目指すべきは最高の動きをできたときに絶対に勝てるような動きを作ることであり、弱点をなくそうと丸く丸くカードを採用していくことではないのだ。とはいえ全てをその動きに費やすというデッキが強いわけでもなく、どこまで譲歩するかというものは非常に難しい。とはいえ、競技マジックの世界においてはこの思考が必要となるのだ。

 この結論を受けて、次に来るだろう質問は「ではどこで、弱点隠しと長所のばしの線引きをすればいいのか」tぃうものになるだろう。これに対する僕の回答は、そのデッキがどれほどアグレッシブなのかにひどく依存することになる、というものだ。

 コントロールのような受動的なデッキは相手の動きに対して柔軟に動き続ける必要があり、打ち消しだったり除去だったりで相手の脅威を叩き落とし続ける必要がある。そしてロングゲームになればなるほど面倒なカードが増えることとなり、コチラにとって優位な場が作られることとなる。つまるところ弱点の完全なひた隠しによってこのデッキはより強いデッキとなるわけだ。

 この考えが適用しやすいのはエスパーコントロールや黒緑過ぎ去った季節の構築にあげられるだろう。闇の掌握、究極の価格、衰滅の3種の除去によって、環境の80%のデッキはカバーできることになるだろう。しかし、まだ20%のデッキが環境には存在し、それに対する解答もこのデッキには求められることとなる。破滅の道や苦渋の破棄といった相手のプレインズウォーカーや進化の飛躍、紅蓮術士のゴーグルといったカードに対応するカードも必要となるのである。

 これらの除去の入れすぎによって発生する裏目は二種類ある。全体除去の入れすぎによるウィニー相手のテンポロスと、単体除去の入れすぎによるコントロール相手の手札の肥やしとなるわけだ。つまるところその二種のバランスをどうするか、という点に僕達は頭を悩ませる事となる。という意味で石の宣告は素晴らしいカードなのだ。単体除去としても全体除去としても動いてくれるからね。たしかに手がかりを相手に渡してしまうというデメリットはあるがために、採用したくないという気持ちもわからなくはない。

 コントロール型のデッキがとることができる、弱点隠しのもう一つの方法は、アグレッシブサイドボーディングである。奇妙に思われるかもしれないが、これは割と昔からコントロールデッキがとってきた戦法でもあり、そして特にモダン環境のような様々なデッキに人権がある環境において、特に有用となるのである。相手の全てのカードに解答札を作ることは不可能であり、そうなってくると相手が対コントロールのサイドボードをしてくる読みでその裏をかくのがひどく有用になる。

 例えば。去年のGP Memphisを思い出してもらいたい。アブザンコントロール全盛期の頃だ。その時にはサイドボードに羊毛鬣のライオンを何度も見たことだろうし、そのようなデッキが上位を支配していた。相手の小粒クリーチャーを踏み倒し、プレインズウォーカーにプレッシャーを与え、そして単に相手のライフを早急に刈り取ってくれる獣として働いてくれたのだ。胆汁病や稲妻の一撃をこのカードのために残しているプレイヤーも何人かはいたが、そのようなカードは狩猟者やサイのキャストを目指すデッキにとっては単なる1:1交換としかならず、実質的に相手の利益にほかならないカードとなってしまうのだ。 また、ゲーム後半にはこのカードは呪禁破壊不能なるキチガイじみた性能のクリーチャーとして盤面を支配することとなってくれる。

 アグレッシブサイドボーディングは、コントロールデッキの弱点を克服するとても簡単な方法の一つであり、それゆえに使われることも多い。相手のサイドボーディングを無に変えさせ、一瞬でゲームを終わらせてしまう力があり、打たれたら不利になるカードを打たせることすらさせないという動きを最小限度の枚数で成し遂げることができる。

 そう、たった数枚というコストを支払うだけでその弱点を一気に克服することができるようになるのだ。他の11~枚に関しては自由にサイドボードを構成し、他のマッチアップに備えることもできるようになる。気にするべきはそのマナコストがデッキに適性たるか、という点に絞られるのだ。実際に羊毛鬣のライオンは4枚投入するだけで多くのマッチアップにおいてエースカードとなれるだけの実力を持つことができたのだ。

 その一方で、アグロなデッキなのならば、デッキの弱点隠しよりかはそのデッキの長所を伸ばしていくサイドボードづくりが必要となるだろう。攻撃的なデッキは相手の動きを無視し、相手が防御陣を作り切る前に相手を殺しきることで問題となるカードを実質的に無視することができるようになる。手札にどんなカードがあったとしても、使われなければ意味は無いのだ。

 そして、受動的なカードを加える事は大概の場合最大の裏目となってしまう。相手がその受動的カードによって妨害されるようなカードを引かなければ意味が無い上、そのカードが他のカードだったならばというケースも多々あるだろう。つまり裏目が多すぎるのである。とはいっても、負けるのを恐れてしまう結果そのようなカードの強さが過大評価されてしまうのも確かなことなのだ。

 例えば、バーンがライフゲインをさせないために処罰の力線をサイドインしたとしよう。一見完璧な対策となっているように見えるし、実際それで相手のサイドカードを腐らせ、ゲームプランを崩壊させることもできるだろう。

 しかしながら、バーンデッキの本質はライフゲインをさせないことではない。相手のライフを0にけずりきることなのだ。19点削ったとしてもそれは何ら意味が無いのである。つまるところ、勝利のためには出来る限り多くの火力を引き入れたいのだ。そして仮に入れた処罰の力線が仕事をしたとしよう。だがそれは本当に処罰の力線でなくてはならなかったのだろうか。単なる火力でも十分だったことのほうが多いのではないだろうか。

 一般にバーンデッキのカード一枚はライフ3~4点と交換されることとなる。そしてモダン環境におけるライフゲインカードはおおよそそれと同じ点数の回復しかしてこないのである。稲妻のらせん、台所の嫌がらせ屋、強情なベイロス、そのいずれも4点ゲインまでしかしてこないのである。まあ機を見た援軍や部族養いもあるにはあるが、それを見ることは前者のそれよりは遥かに少ないものだといえる。

 処罰の力線が効果的なカードとなるとき、相手はそれらのカードをサイドインし、そして手札に引き入れている必要がある。そしてこれらのカードが単に一枚だけなのならば処罰の力線は単なる火力としての働きしか持っていないのだ。更に言おう。相手がその手のカードを引かなかったならば、そしてそのせいで火力が一枚足らずに負けてしまったのならば……。後は言わなくてもいいだろう。そう、そのカードが火力ならばゲームに勝てていたのである。

 たとえ血糊の雨のようなカードが魅力的に見えたとしても、それはライフゲインカードを前提としたものであり、結局は相手の動きに左右されるカードとなる。バーンデッキはコントロールデッキではない。相手とのカードのやりとりをするようなデッキではないのである。そしてつまるところそんなデッキで相手の動きに依存するようなカードは採用する理由がないのである。

 だからこそ、頭蓋割りが、アタルカの命令がアンチライフゲインカードとして輝いてくれるのである。火力としては若干不満が残るものの、相手がライフゲインを引いていなかったとしても単なる三点火力として投げつけることができるし、ライフゲインを使ってきたのならばそれに対応して撃つだけで簡単にゲームをぶんどることができるのだ。

 そういう観点から見た時にこの頃の人間ウィニーが奇妙な幕間を衰滅対策として入れル必要があるのかを考えてみよう。たしかに衰滅に対してこのカードを投げつけることによって、自軍の全滅は回避することができる。たった3マナで全除去回避できるというのはとても強い動きではある。だがしかし、逆にずっと3マナなどという多量の土地を立てたまま、こちらは攻撃に向かわなければならないのだ。そして考えてみて欲しい、例えば相手がそうそうに戦線を整えてきた時にはこのカードは役に立つか。もしくは衰滅は引かれなかったものの、このカードのせいで他の身を引くことが出来ず、そのせいで負けてしまう場面は想像できないだろうか?

 このように局所的なカードに対するアンチカードはおおよそそのヘイトを意識しすぎたために入ってしまうのである。落ち着いて考えて欲しい。あくまで僕達が求めているのはゲームの勝利であり、相手のアンチカードを叩き潰すことではない。そしてアグロ系デッキでわざわざ攻撃力を落としてまで相手のアンチカードに付き合う必要もないのである。そう、必要なのはアンチ衰滅カードなどではなく、衰滅のせいで負けてしまってもしかたがない、とある程度割り切り、その前に相手を殺しきるプランを作ることなのである。

 そう、だからこそアグロ系デッキのサイドボーディングは最低限に留め、自身のデッキの核となる部分をしっかりと持っておく必要があるのだ。これはコンボデッキにも言えることであり、わざわざデッキの安定性を落としてまで相手の妨害に回る必要は一切ないのである。

 例えばレガシー環境のANTはサイドに蒸気の連鎖や突然の衰微を採用し、対処しづらいパーマネントによる妨害の除去を試みている。しかしそれは全てのマッチアップにおいてこのカードを投入するという意味ではないのである。このカードは虚空の杯のような、置かれたら絶対に負けてしまうようなカードの対策としてサイドインする、という意図のもと入れられているカードなのだ。

 ANTでチャリスに対応できなかったとすればそれは一気に負けに傾くこととなる。しかしそれはあくまで1ゲームのみのものであるはずなのに、それを恐れるがあまりどんなマッチにも投入してしまうようなプレイヤーがいるのだ。恐怖を勝手に増大させてしまっているのである。

 僕は別にANT使用者に対して、サイドからこれらのカードを抜け、と言っているわけではない。現状のメタゲームをよく見て、適切な範囲でサイドボードを作り、対戦に望んで欲しい、と言いたいのだ。

 長年マジックをしてくる中で、このデッキの作り方に関して多くのプレイヤーが間違ってきたのをみてきた。わざわざデッキ構築の段階から負けやすいデッキを作ってしまうプレイヤーがとても多くいたのだ。また、僕自身これに気づくには相当の時間を要したし、他のプレイヤーたちもすぐには納得しないだろう。一般解は所詮一般解でしかなく、特殊な状況においては奇妙な幕間も処罰の力線も輝く可能性は十分に保持しているからである。

 マジックは広大な資産を用いて取り組むゲームでこそあるが、無限の資産があるわけではない。もしカードを正しく使えないのならば、何ら勝ちを保障する論理的理由は生まれることはないだろう。だからこそ、この理論を最初に使ってほしいのだ。デッキの長所と短所を理解し、どこまで短所をカバーしておけばいいのかについて知り、スキルアップしていく中で、さらなる高みを目指すことができるようになる。そうして初めてこの得体のしれない「アンチカードの恐怖」から抜け出し、より勝てるデッキを作ることができるようになるのである。